折り紙作品のできるまで:キリン編

2003/8/30公開
2005/7/25修正

15度による構成とキリンというテーマ

 実はキリンの創作を試みたのは今回が初めてではありません。レプタイルの面白さを追及するには22.5度系以外もやらねばと思い至ったのが大体3年前、そう「うさぎ」から「カバ」までの空白期間の事です。

 最初15度系で試したのはでしたが、あえなく失敗。この時に思ったのは「猫は難しすぎる。最初はもっと取り組みやすい題材でやるべきだ」ということで、すぐにキリンは最適なのではないかと考えたのです。カド出しの要素が強い分、そんなにややこしく悩むことはないだろう‥‥と思ってやり始めたものの15度系の扱いはそんなに甘くなく(詳しくは後述します)、程なくして「今のぼくには無理」という結論に達したのでした。

そして時は流れ2003年の夏

 不意に再びキリンに挑戦しようと思い立ちました。前回の反省を踏まえて、今回は謙虚な気持ちで望むことにしましょう。

 とにもかくにも実際に折り始めて15度系の感覚を思い出そうと思いました。最初につける折り筋は下のようなものくらいしかありません。22.5度系なら凧型基本形、魚の基本形にあたりますか。

15度の基本線

 と、ここまで折ったところで、あることに気付きました。はて、この比率どこかで見たような‥‥というかすごく懐かしい感じがするじゃないか。

22.5度の基本比率

 そうこの比率、22.5度系の基本比率1:√2 に似てたのです。1:(√3+1)/2≒1.37 なので誤差は結構ありますが、これでも次のような連想をするに十分な類似でした。

 ‥‥このカド配置、そしてキリンというテーマ。何か思い出さないでしょうか? そう、前川さんのビバのキリンです。

前川さんの「きりん」

「きりん」作=前川淳(『ビバ!おりがみ』より)

 実のところ私が22.5度系でキリンを作れない(作る気がしない)原因となっているのはこのキリンがあるからと言っても過言ではありません。(ちなみに、「ビバの」と書くのは、その後前川さんはさらなる2種のキリンを発表されているからです。)

 そうだ!ひらめきました。「前川キリンを15度化する」というアイデアです。最初にカド配置を固定して作り始めるのは普段はほとんどしないことですが、このアイデアは取っ掛かりを求めていた自分にはまさしく光明でした。

 さっそく紙をいじり始め、いくつかのパターンを没にしながら辿り着いたのが、下の展開図に示した胴体〜脚です。カド配置を固定したのは効果がありました。選択肢が絞られますから。

試作の展開図

 赤い線で囲った構造が胴体の見立ての手がかりになっています。これはうまく行くかもしれない‥‥と折り進め、とにかくキリンらしき形に持っていきました‥‥。

ヒダをコントロールする技術

 と、ここで突然話はずれまして、前回の犬創作レポの時に「カンに頼っていて言語化するのが難しい」と言った「試行錯誤」の部分についてちょっと書いてみようと思います。

 試行錯誤的に形を作る時に必要となる技術でもっとも基本となるものは何だろうかと考えると、それは「ヒダを(思い通りに)作る技術」ではないかと思います。「ヒダ? カドの間違いじゃないの?」と思う方もいるかもしれませんが「カドを折り出す事」はイコール「ヒダを作る事」と見なすことが出来るのです。

 どういうことかと言うと、カドを折るには相応の円領域が要ります。アバウトに言ってしまえば、カドを出したい場所の付近に紙が集まっている必要があります。これすなわち紙がヒダとして折り畳まれている状態であり、その紙を使ってカドに限らず様々な造形を引き出すことが出来るということなのです。

 この感覚は試行錯誤をする時には大変重要です。ヒダを思ったところに作る技術、これさえあれば極端な事を言えばいちいち展開図からの設計をしなくても思い通りの形を作れる筈です。(というかそれはむしろ正に設計と呼ぶべきかもしれません。)吉野さんの創作感覚はそういう感じだったんだろうなと推測します。

 まだ漠然としているかもしれないのでもう少し具体的な話をすると、このようなヒダを操る技術の内のひとつとしてヒダの向きを変えるというのがあります。ある場所にあるヒダを、別の(ヒダが欲しい)場所に移動させる技術です。分かりやすい例として私の「狐」で使っている構造があります。

狐の基本構造

 目黒さんに「ヒダ脊椎」(ナイスネーミング!)という分類をされた構造ですが、ここでは背骨方向に走るヒダを(後ろ脚の)欲しい場所に向かって向きを変えています。こうして紙全体の構造をコントロールして、欲しい場所に欲しいだけの紙を集めればいいのですから、感覚的には全く粘土細工と変わるところがありません。ただし折り紙の場合は紙が持つ幾何学的条件によって無理なコントロールが出来ないというだけです。ボックスプリーツが創作初心者でも比較的形を作りやすい技法とされるのも、蛇腹の折り畳みにおける特性、収容性の高さによっている部分が大きいのではないでしょうか。また、フロデュレールさんの作品で有名な「揉み紙技法」は、素材となる紙をあらかじめヒダ(この場合微小なヒダですね)を作りやすい状態に変えてしまう技法として考える事が出来るでしょう。

パターン

 上は私が多用する折り線パターンで、山・谷が3:1(またはその逆)となっているものです。超基本的なパターンなので、別に「私が多用する」などど言う意味も特別ないですけど、一応意識して使っています(主には一値性を崩すのが狙い。また紙にかかる負担が小さくなるという意味も)。

 このパターンを「ヒダをある方向に向けて作り出す」ものとして捉えてみる事で、試行錯誤的に紙をいじる感覚が分かっていただけると思います。下の図のようにしてヒダの向きや大きさを変化させ、用紙全体におけるヒダを操るわけです(図は22.5度系の例)。

ヒダの出る方向を変える

ヒダの大きさを変える

 ヒダを操る方法はこの2つの例だけではもちろんなく、数限りなくあります。中割り折りやかぶせ折りだってそうです。(たとえ感覚的ではあっても)意図して使いこなせるようになれば、どんな折りの操作(展開図で見ればパターン)であっても折り紙創作のための技術・技法として役立つのです。

 さて、紙をコントロールする上では、用紙上の位置の感覚というのが極めて重要になってきます。「どこ」からカドを出すか(どこにどのようにヒダを作っていくか)を「用紙形」というキャンバス全体に対して常に考えていなくては、全体の構成などありえないのは明らかでしょう。

 先の図で補助的に描き込んでありますが、22.5度系では用紙上のひとつの点から伸びる折り線は16本が上限です。よって用紙上における「方向」の感覚もこれを元に作られます。

 これが15度系になるとどうなるかというと、22.5度系における方向の感覚、位置や距離の把握が通用しなくなります。22.5度系で16あった方角は15度系では24に増え、用紙内はより複雑に区画化されます。私が15度系にはじめて挑戦した際に見事に玉砕したのはこうした方向の感覚が培われておらず、位置・距離の把握が出来なかったからでした。まさに道に迷った状態です。鏡文字を書く感覚にも通じるものがあるかもしれません。

 用紙上に点在するポイントはこのような「レプタイル構造」によって把握され、折り線がかたちづくる全ての多角形はその系の単位三角形=前川原子の集合体として認識されます。系の前川原子の種類が増えるほど平面認識は複雑になっていき、試行錯誤する際の難易度は上がっていくものと考えられます。ボックスプリーツつまり45度系は前川原子が1種類しかありませんね。

 ところでいわゆる任意角を使った場合はどうでしょうか。任意角と上記のようなレプタイルは全く別の方法論と捉えられる事が多いかもしれません。

 しかし、系の拡張ということを考えると、任意角による平面の把握は「90/∞度系」レプタイルとも捉えることができます。前川原子の種類も無限個! その濃密さは想像するだに頭がくらくらします。その中から最適な折り線を選ばなければならないのですから「何も無いところに折り筋を引くのは私にとって恐怖に値する」と犬編で書いた所以です。

 しかし、造形的な自由度も無限になるわけでして、私はたまに「展開図を折り畳むだけで完璧な造形が出来上がる」という夢のような作品(自分にはとても作れない作品)を想像して歯痒くなる時があります。まだ見つけられていないだけで確かに存在(!)しているのですから。そういう濃密な構造を持った作品からすれば蛇腹や22.5度系の作品なんてある意味スカスカのドット絵みたいなものかもしれません(蛇腹も22.5度系もその豊饒さを語り尽くせない程に大きい世界だとは思いますが)。

 あちこち話が行ったり来たりしてしまいましたが、犬の創作レポで書いた「紙の振る舞いパターン」という話は、ここまでの内容の延長にあります。なお、レプタイル構造のバックボーンとなる考え方に興味のある方は『ビバ!おりがみ』を参照して下さい。

答えは展開図に

試作の写真

 キリンの話に戻ることにします。上の写真がともかくもでっちあげたものですが‥‥これは‥‥どうだろう。写真では展示コーナーにあるものとあまり変わらないように見えるかもしれませんが、少々無理をして作った形です。特に頭部付近は紙が多くて持て余してしまっています。全体を見ても首から上が胴体に比べて大きいように見えます。

 なるほど前川さんのキリンを見返してみると確かに首が大きめ、脚は短めなデザインです。しかし全体に折り紙的なディフォルメが強めにかけられているので全く気にならないどころかむしろ「キリンらしさ」が増しています。かたや私のコレは胴体の見立てがリアル寄りなため同じカド比率でも破綻を招く結果となってしまいました。これではとても完成とは言えません。

 しかし、せっかく手に入れた有望そうなパターンです。あっさり見放すのは勿体ありません。なんとか出来ないでしょうか。

 (ここで展開図をにらむ。)

 すると進路が見えました。「中心線の回転」(『をる』16号p.34、前川さんの記事参照)がうまく使えそうではありませんか。

展開図の回転

 このように切り取るのはどうでしょう? 中心線回転技法はすでに決まっている構造を壊さずに適用できるのが嬉しいところです。

 この見直しによってうまく行きそうな点は‥‥

  1. 頭部の紙が大幅に少なくなる。
  2. 腹部の紙も少なくなる。
  3. 前脚も辺からの折り出しになる。
  4. カド配置が展開図的に面白くなる

‥‥といいことづくめですよ。対して問題は‥‥

  1. 尻尾の領域が小さくなる

‥‥ことくらい。尻尾を長く折り出したいというのはデザイン上大事なポイントですが、後脚の円領域を描いてチェックしてみると短くなるのはなるが致命的に短くなるわけではなさそうな事が分かりました。メリットデメリットを考えればもう迷うことはありません。

 展開図をいじる時にもう1つ心配だった「最初の折り出しが面倒になってしまわないか」という事も問題なく、正方形のカドを三等分する工程から始める事が出来ました。そしてしばらく紙をいじった後、このキリンがめでたく完成したのでした。顔の造形は予想以上にうまく行って思わずにんまり。さっきの配置ではこんな風には絶対行きませんでしたから、展開図を見直した甲斐がありました。

完成した展開図

キリンの完成写真

 無闇に喜んでいるのもアレなので、批判的な目でも見ましょう。うーんやっぱり首から上が大きめですね。前脚〜首の部分は前の配置と何も変わってないのですから当然です。それでも折り紙的なデザインとして見れば成立はしているだろうと最終的に判断しました。なんとなれば短くするのは段折りでいくらでも出来るわけだし‥‥ってこんな事言ってちゃダメですねえ。

 こういうデザインにおける葛藤は折り紙創作にはしばしば起こる問題だと思います。展開図へのこだわりと造形へのこだわりが乖離してしまうのは不幸な状況と言えるでしょう。紙から得られる形を素直に受け入れる事は基本的な姿勢として大事だと思いますが、やっぱりそれが「逃げ」になってしまう怖れもあるわけで、なんでしょうねえ、「極大」という表現のペシミスティックな側面と言いますか、こんな創作態度もなんだかアレだよなあと悶々とする時もあります。この辺他の作家さんたちはどうなんでしょう。

 欠点はまだあって、作品が自立しにくい点です。重心が前に偏りすぎていて、倒れやすいのはマズイですね。吉野馬のように尻尾側の辺に仕込み折りをすれば、この欠点と尻尾の長さを同時に解決することも出来そうですが、色々考えてやめることにします。こういうのは折り手が行う工夫の範疇だと思います。

 さて今回は一度の展開図見直しでうまく行きましたが、うまく行かない時も当然ありえます。その時は素直に諦め‥‥なくて、ポイントとなる構造は壊さないようにしつつ展開図をいくつかにちょんぎって並べ直し、うまい配置を考えたりします。こういう場合かなりの確率で失敗する傾向がありますが(笑)。やるだけやってダメなら早々に諦めて別の道を探す方が賢明です。

振り返ってまとめ

 キリンはこうして完成しました。本文章を読むまで展示コーナーの展開図を見て「小松はコレをいきなり考えたのか」と思った方も多かったのではないでしょうか。逆にここに書いた通りの事を推測していた猛者もいらっしゃるかもしれませんね。

 振り返ってみて、私が出来上がりの展開図を直接的に設計することは可能かどうかを考えると‥‥難しい問いです。そもそも、別の過程を通って(例えば中心線の回転を使わず「犬」の創作のように端から作っている方法などでも)このキリンを作ることは出来たでしょうか? 少なくとも今の私にはこの問いに答えることが出来ません。どんな創作であろうと、いくつもの評価判断の連鎖で成り立っています。ひとつひとつの判断の順番が入れ替わった時に、どんな影響が生じるかは非常にナイーブな面を持っているでしょう。将来、創作技術がもっと上がった時に「なんだ〜こんなのどうやったって作れるよ」と思える時が来る可能性だってあります(念のため言っておきますが、創作が簡単な事と作品の価値はすぐに結びつくものではありません‥‥そして全く無関係でもありません)。

 最初から完成形が手に取るように分かっていて、後はそれを実現するだけ(つまり評価判断が出揃っている)というのならば、このような問題はありません。実際にそういうケースはありますよね。でも私は完成が見えないまま手探りで作っていく方に魅力を感じます。断片的であっても何かを作ることで次のステップがようやく見えてくる。その過程を経なければ気付かなかったかもしれない形、それに出会う喜びこそ私にとっての折り紙創作の醍醐味です。